遺され村の美術展

 


4月8日より、滋賀県大津市葛川細川町集落で開催される「遺され村の美術展」に出品します。
このたび、村へ滞在してこの美術展のためだけの絵を描きました。この村で生まれ、この村で朽ちていくのを目指した作品です。

河原や林の中を巡る美術展となりますので、お越しになられる方は事前に注意事項を必ずお読みください。
また、参加作家の作品解説やプロフィールはHPでご覧頂けます。
http://www.nokosaremura.com

どうぞよろしくお願いいたします。





〜ようこそ、遺され村へ〜

京都から若狭へ至る山あいの道、鯖街道。
この沿道の小さな村で、
密やかな美術展を開催します。

会場は人口24人のうち60歳以上が13人という過疎の限界集落。
温泉はもちろん古刹や史跡などの名所も在りません。
在るのは無住の小さなお寺と森の中の寂れた神社。
荒れ果てた田畑とわずかばかりの民家。
澄んだ水と石だらけの川原、狭くて急な谷、苔むした石垣、
永く人の住まない空家と崩れかけた廃屋…。


けれども。
そんな村の其処此処に、
例えば欝蒼たる森の陰に、
或いはひっそりと地蔵様の祠の傍らに、
または崩れかけた納屋の中に、
鑑賞されることを期待せず
「ただ昔から其処に在るようにして在る作品たち」、
その声に静かに耳を澄ます…。

そういう美術展です。

およそこのような地域型イベントは、
地元の商工会や観光協会などの協賛や後援を得て、
村おこし町おこしを目的として行うのが常ですが、
この美術展はそういう方向では考えていません。
それは「芸術祭」や「フェスティバル」という祭りにして
静かな村をかき回したくないという思い。
そしてもう一つには、
美術展という作品に出合う舞台として、
特別な時空「ハレ」ではなく、日常の「ケ」でありたいと考えています。

何もないケの村で、美術作家たちが作り出す
「心の奥底に遺された村」を味わいにおいで下さい。


開催期間 :2017年4月8日(土)〜6月4日(日)

鑑賞時間:10時〜17時(毎週水曜日は休みます)

・時間外も野外作品は鑑賞できますが、ウェルカムハウス、寺は閉まります。照明、音響、映像装置はオフになります。


アクセス:江若交通バス

●往路 JR堅田駅8:50→細川9:45  ¥1,200

●復路 細川15:37→JR堅田駅16:30 ¥1,200(土日のみ運行)

細川16:24→JR安曇川駅17:06 ¥1,100

細川17:30→JR安曇川駅18:13 ¥1,100


:自家用車

●京都大原からR367で約40分

●湖西道路真野IC下車、途中よりR367で約30分




個展「心象とドローイング」

 

東京個展直後にはなりますが、大阪でも個展を開催します!

東京の巡回展ではなく、内容も少し変わります。

本展では今までの作品に加え、ドローイング作品を多数展示し、記憶とイメージの交錯を展開します。

会期中毎日在廊予定です。

土日は休廊ですのでご注意ください。

どうぞよろしくお願い致します。

 

 

八太栄里個展「心象とドローイング」
2017年3月27日(月)〜4月7日(金)
11:00〜19:00 最終日は17:00まで
※土日 休
Gallery SPOON
(大阪市中央区釣鐘町2-3-17
・地下鉄谷町線「天満橋」駅4号出口より徒歩7分)


在廊予定日

3月27日,28日,4月5日,6日,7日

(変更がある場合はTwitterでお知らせします)

 

個展「エンドロール」

 

1年5ヶ月ぶりとなる東京個展を開催します。

記憶を切り取り描く作品を死の間際に見る走馬灯にたとえ、画面の中の少女の役わりや死生観など、いままでの作風をより深く掘り下げていく展示となります。

会期中は毎日在廊しております。ぜひお越しくださいませ。

 

八太栄里個展「エンドロール」

2017年3月14日(火)〜3月19日(日)
11:00〜20:00 最終日は18:00まで

The Artcomplex Center of Tokyo ACT4
(東京都新宿区大京町12-9
・東京メトロ丸の内線「四谷三丁目」出口1より徒歩7分
・JR総武線「信濃町」駅より徒歩7分)

 

 

 

ステートメント

 

死の直前に「走馬灯のように人生がまわる」らしい。(これを以下、「走馬灯」と表記する)
今まで何度か個展を経験して来たが、自分の記憶を描いた作品に囲まれた空間にいると人生の追体験をしているようで、意図せず、自分自身の走馬灯の中に放り込まれたような気持ちになることがあった。もちろん走馬灯を経験したことはないのであくまで想像なのだが。
今回の個展ではそんな人生の終焉に訪れる走馬灯をテーマに、記憶を描き続ける意味について考えていきたい。


何故、思い出アルバムではなく死の直前の走馬灯なのか。自分の作品から走馬灯を連想したのはそこに死の気配があったからだ。
忘れ去られてしまう記憶をモチーフにして、この世界に生きる儚さや何にでも必ず終末があることを描いてきた。
もともと過去の自分を投影した姿で少女を描いてきたが、少女の役割を自分の内面だけでなく、外に向かわせていきたいと思い、そのために彼女(自分自身)の感情が前面に出ないように意識してきた。
そうすると風景に同化しすぎず、客観的で俯瞰的な位置から記憶を見つめる存在へ変化してきたように思う。
少女の視線はものごとの終末を冷静に見つめている。ぼんやりとした終末感と死の気配を静かに浮かび上がらせ、日々、見逃しがちな些細な別れであったり私たちの行きつく先の存在を示していきたいと思っている。


さよならだけが人生だ という詩があるが、さよならだけが人生ならば、さよならと上手に付き合っていくしかないと私は思う。
冷静に死を見つめる視線を持ち、終末をそばに置いておくのは、今をよりよく豊かに生きるための方法であり、それを手にとれる形として私は今後も作品を作り続けていきたいと思っている。
自ら走馬灯を作っていく死への準備のようでもあるが、実存の場所と実体験という極めてパーソナルな位置から鑑賞者の記憶へ問いかけて精神的に他者と繋がることを試みていきたい。
自身の記憶と対話し、未来の終焉を見つめ、今を救う役割を果たせることができれば幸いである。